2011年5月19日木曜日

タオル輸送隊2便通信

 「こどもたちに笑顔を!」 

タオル搬送隊2便&4便・隊長松平@横浜115です。

きっかけはタイヤキ隊で入った現地の惨状。私に出来る事?月島の倉庫のタオルがあった。

当初乗員2名、前日になり乗員4名となった。全て未成年。原隊の許可&保護者の許可を条件に同行。一言。我々は見学者ではない。物資を積んでいる。物資を待っている人に届ける義務がある。(集めた人にも。)

未成年を同行させた事については賛否両論あると思う。でも、現地を見て、彼らが何かを感じてくれれば、私は満足。きっと彼らなら、何かを始める。

4月22日(金)~23日(土)

タオル&バスタオルを衣装ケースで25箱搬送しました。搬送先は、石巻6団関連2箇所で10箱、牡鹿半島避難所4箇所で15箱。

眼科さんは見た感じでは普通に見える。但し、道、道、道、に「がれき」。

湊田町の配給所

この一帯は水が2階ギリギリまで上がった所。1階がドロドロの状況。配給所にて相談したら、石巻6団の方がおられました。蟻坂団委員でした。そこからの話が早い。同じちかいをたてた仲間。物資を渡し、番号交換をして、後日の再開を約束した。三指敬礼で送り出しして頂いた。(格好よかった。)

そして牡鹿半島の避難所(4箇所) 詳細はスカウトたちのレポートに託す。



4/22(金)夜から4/24(日)未明のタオル搬送隊2便参加者からの声

関東地区ローバースカウトA


自分が今回、被災地に行ってまず気になったのは町中磯の香りでした。津波ていうの理解はしていたが、実感はしていませんでした。

1件目に救援物資を届けた場所は、遠くから見るだけなら、結構きれいでした。ですが近くで見ると1階にあった家具の残骸が近くに所狭しと積んでありました。ですがこの場所は海とは何キロも離れているいる場所で、まだましなところでした。ここら辺は2階が大丈夫で、みんな自分の家で暮らせていけるからです。

2件目の場所は1件目よりひどく家が崩れていたり、1階部分が柱を残してなくなっていたりしていました。その後にタオル配ったのは全部海沿いの高台でした。海から数百メートル離れたところでも差がかなりありました。見える景色一面瓦礫だけで、よくて家の左側が抉れていたり、かろうじで面影があるところでした。家の屋根だけ地面に置かれているところもよくありました。でもほんの少し高台に行くだけで被害が全然違いました。

家も全壊しているのはなく少し壁がなくなっている程度でした。非難所について:物資を受け取る人としたきちんと会ってはいないが、物資集積所のリーダー年をとっているひとが多くて大学生とかの若い人は見かけませんでした。

関東地区ローバースカウトB

私は4月23日から24日にかけて、被災地に直接物資を届けるという手伝いをしました。主な物資はタオルや子供向けの絵本や玩具である。また、地域は石巻から牡鹿半島だった。3月11日の大震災以来、毎日TVで放送されている被災地に赴くことができたのは、自分の考え方を変えるよい経験になったと思っている。

まず、現地石巻に到着して目に飛び込んだのは家財の山であった。津波で使えなくなった家財が町のあらゆるところにに山のように高く盛りあげられていた。そして車から降りた瞬間には生臭い異臭。これもすべてが生みに浸かったというまぎれもない津波の傷跡であった。

これらの現状は「今自分が立っているのは数ヶ月前に大災害にあった土地」という認識を強め、その風景には宮城が津波に飲み込まれるTV中継の恐怖も再び思い出した。石巻から牡鹿半島へ向かう途中も悲惨な状況だった。

大きな国道沿いもほとんどの建築物が半壊、もしくは全壊していた。港町に至っては船も反転し、家も殆どが全壊であり、いまだ遺体捜索を行っていた。3月11から一ヶ月以上たち、ある程度の片付けは進んでいるのだろうかと考えていた私は、鳩が豆鉄砲を食らったようだった。

しかし被災地での印象はこの惨状だけではなかった。現地でタオルを配っていくと、被災者の方たちはが協力して生活しあっているのを何度もみかけることができた。家も服も全て流され、いまだに大きな余震もくるような土地。また大津波や大地震がきたらひとたまりもないであろう土地で、被災者の方たちは強く結束しながら生きているように見えた。自分が家族も家も全て流された・・・と思うとここまで気丈でいられるかどうか分からない。また途中途中みかけたあの笑顔も、自分だったら無理かもしれないと思った。

この惨状に対し、この被災者の方達の強さ。宮城ではこれらを目の当たりにして、微力ではあるが自分に出来ることはなんでも、もっとたくさんしていきたいと感じた。そして数年後には被災地ではなく、行楽地として宮城へ赴き、現地でスカウトキャンプを行い、もっとたくさんの笑顔をこの目で見たいとつよく感じた。



関東地区ローバースカウトC

3月11日、地震が発生し、日本中の生活が一気に通常から異常に変わった。テレビでは常に被災地の映像が流れ、まるで映画のような世界を、映画やドラマのようにただ見つめるしか出来なかった。

しかし今回被災地に入り、その惨状さを肌で感じた。少しずつ瓦礫が増えていき、道が水没していたり、車がプールに入っている姿を見ていき、ついには家と思われる柱だらけになっていった。けれど私は特に怖いだとか、不安になったりはしなかった。

1番怖いと感じたのは、帰宅後、お風呂に入ろうとした時だった。いきなり今さっきまで平気で直視出来ていた被災地の情景がまぶたの裏に出てきては消え、ぞっとするような肌寒さを感じた。今思うと、あまりの悲惨に、私は、現実として受け入れることができていなかったのだ。

日常、頼もしく感じている消防車さえもぐちゃぐちゃにされているという現実を、私は車の中から眺めながら、アトラクションのように感じていたのだろうし、そうしなくてはあまりにも衝撃的で、耐えられなかったのだろう。そして、私が現実を受け入れることができなかったもう1つの大きな理由は、現地の方々の気丈さ、普通さもあると思う。

テレビ等でもよく言われているが、現地の方々は文句1ツ、嫌味1つ私たちにかけることなかった。むしろ、遠くからよく来たね、大変ね、気をつけて、だなんて逆にこっちが心配されて、拍子抜けしてしまった。どうしてそんなに強いのだろう?と思っていた私に、赤十字のテントを建てた避難所の中の1人、女性の方が、「生きていられるのだから、家がなくなってもなんとかなる」と言ってきた。本当は苦しいだろうに、それでも平気そううにハッキリと、彼女に言わせた何かを知りたいと思った。残念ながら今回は時間がなくて彼女からもっと話を聞くことはできなかったが、次また会う機会を何とかしてつかみたいと思う。

今回、石巻に行って、私は今の自分が抱いている悩みのちっぽけさを感じた。そして、私たちが今1番何をすべきかを考えた時、「命を無駄にしないこと」だと強く思った、1分1秒、というと少しおおげさかもしれないが、毎日を大切に生きること、今日を生きられることがあたりまえではないことを自覚すること、これこそをが私たちがやるべきことだと確信した。




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